今日は針供養の日らしい。折れ針に感謝して裁縫の上達を願う、奥ゆかしい習わしである。裁縫といえば、前にも書いたがソーイングビーという海外番組がある。多くの課題にチャレンジして裁縫の腕を競い、一人ずつ脱落して最後まで誰が残るかという熾烈な番組である。正確さ、美しさ、速さ、機転、発想、センス、知識などが試される。きれいに縫えるだけでは到底勝ち抜けない。毎回、楽しみに見ている。
審査員の指摘はいつも厳しいが、褒める時にはどういうところすばらしいか具体的である。出場者は審査員に褒められたくて頑張っている。辛口の審査員が「褒める」ときは心底素晴らしい出来映えであるから、その価値は本人にとっては何倍にもなるし、見ている方も感激する。審査員を唸らせるほどの出来を目指して努力し葛藤する姿がとても新鮮である。
物を作る作業は根気がいるし、小さなことでも丁寧さを要求される。その積み重ねが美しさを生むのだが、私には無理である。出来上がりばかり気になって急いでしまい、まあいいかと途中が雑になるので、当然仕上がったものも雑であるし、その時間も無駄にしている。
そういう意味では向き不向きがはっきりする。裁縫も和裁も刺繡も編み物も組み紐もやった。わかったのは向いていないということだ。出来上がりがイマイチなのである。唯一褒められることは仕上げることだが、使い道のない仕上がりにさらにがっくりするのである。
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