またまた言葉の話であるが、雑談の重要性を感じている。老親と暮らしていると本人たちの耳が遠いせいもあって、話が通じない、あるいは大きな声でしゃべらなければならないということが多い。
例えば「朝晩、涼しくなってきたね」と言ったとする。まず、無反応(聞こえていない)。次にもう一度言う。はあ?という(何か聞こえているが聞きとれない)。「あさ・ばん・涼しく・なって・きた」と分けて言う。何が?という(部分聞こえになっている)。今度は大きな声で「あさ・ばん・涼しく・なって・きた」という。大きな声ということで「叱られている」あるいは「文句を言われている」と思って本人はむっとする。
というような具合で、何気ない季節の会話はイラっとさせるだけで、日常会話の潤滑油にはならない。そうなると用件のみ会話になっていく。それも怪しくなるとしゃべった内容を紙に書いて渡すことになる。食卓での会話もこういう理由で雑談ができないので、もくもくと食べていることが多い。
介護者は、このように普通スピードの会話がないのでストレスが溜まっていくのである。これは100歳近い母親を介護している70代後半の叔母も言っていた。介護される方は話を聞いてもらえるのでストレスはないが、介護する方は話がほとんど通じない人との生活に疲れるのである。叔母は妹さんにその話をしたそうだが、母親の認知症が出てきたなら大変だが、話がかみ合わないくらいならいいじゃないと思われたらしい。これが24時間続く人の身になって考えられないのだろう。私には伯母の気持ちがよくわかるし、介護に疲れた人の事件などを見ると雑談できることの意義を考えてしまうのである。とりとめのない会話ができるというのは人間性の担保みたいなものなんだろうか。
コメント