悩み続けている人は、自分が永遠に生き続けると思っているという話を聞いた。自分の命がいつ終わるかなんて、普通に生活している人ならあまり考えないことである。「明日死ぬとしたら、今日どうするか」という話を合わせて聞いた。
そして自分に置き換えて考えてみた。食べたいものがあるわけでもない。どこかに行っておきたいということもない。誰かに逢っておきたいということもない。誰かが困るわけでもない。預金残高ももちろん気にならない。行きついたのは「片付いていない自分の部屋」が一番気になったのである。
といわけで少し片づけるか、という気になった。クローゼットを開けると詰め込まれた引き出しがあって、数枚のカットソーを捨て、スカーフ類を整理した。働かなくなってから仕事に着ていくような服はぶら下がりっぱなしである。ざっと見渡したが活躍しているのは家で着るようなどうでもいい服である。どうでもいいというのは家事で汚れても気にならない程度の服ということである。しかし、このような服だけを残すとこれまた寂しい人生ではないかと思い、手を付けるのは中断した。
次は机の引き出しである。とりあえず取っておこうと思った書類がたくさんある。個人情報もあるので、せっせと手回しシュレッダーにかけた。大したことない量と思っていたが、A41枚ずつしか入らないので、結構な時間を要した。
横を見ると本棚に埃があるではないか。こちらも詰め込まれた本がたくさん入っている。雑巾であちらこちらを掃除していると、時間を要してすっかり疲れてしまったが、それほど片付かなかった。
明日死んだら、「だらしない奴だった」で終わるということだけしっかり認識できたが、それとてただの見栄である。「人」や「もの」や「場所」や「お金」には執着しないが、「見栄」はあるのだと思うと自分でも笑える。
でもそれってどうでもよくないか?と改めて思ったりする。そうすると意外に「まっいいか」で収まるものである。時折「メメントモリ」を考えれば、変に悩むことはないのかもしれない。
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